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Railtrip Landscape History

二階堂大路・二階堂川・義時の大倉亭



覚園寺の拝観のあと、
薬師堂ヶ谷の道を歩いて、鎌倉宮の前まで戻りました。

そして、二階堂大路を南へ。


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六浦道の岐れ路交差点から、鎌倉宮へと通じる、
京浜急行バスの経路になっている、大きめの車道。

そのひとつ東側にある道が、二階堂大路です。
吾妻鏡にも載っている鎌倉時代の道ですよ。

下の地図のマークが、上の写真を撮影したポイントで、
マークされている道が、二階堂大路です。





大路、というわりには、
小じんまりとしたカワイイ道です。

本来はもっと広かったのかな(?)



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前回の記事の、覚園寺は、
鎌倉幕府の2代執権・北条義時(政子の弟)が建立した、
大倉薬師堂を起源としています。

ある日、義時の夢に、薬師十二将の「戌神」が現れ、
将来、義時に訪れる運命について、暗示を残していった。

それをきっかけに、義時は、運慶に薬師如来像と十二神将を作らせ、
1218年、大倉薬師堂を建立。

覚園寺がある谷を、薬師堂ヶ谷と呼ぶのは、
その北条義時の薬師堂に由来するそうです。

ちなみに、覚園寺の現在の薬師堂は、
1354年に、足利尊氏が再建したものがベースになっているようですよ。

「覚園寺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年10月26日 (水) 07:22
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/覚園寺




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しばらく行くと、二階堂大路の水路は左折し、
二階堂川へと流れていきます。

二階堂大路のほうは、このまま南西へまっすぐ進み、
荏柄天神社の参道をよこ切り、六浦道と合流する。

二階堂大路と六浦道の合流地点、その西側は、
鎌倉幕府の最初の将軍御所、大蔵幕府の跡地になります。

鶴岡八幡宮の東側のエリアを、大蔵(大倉)といいますが、
北条義時も、この大蔵に邸宅を構えていたそうです。
義時の大倉亭です。

その場所は、吾妻鏡によると、杉本寺よりも西側で、
二階堂大路の東にあったんだとか。
(「都市鎌倉の中世史」 秋山哲雄 2010年 吉川弘文館 より)





そうだとすると、義時の大倉亭の跡地は、
鎌倉市立第二小学校がある辺りなのかなって、私は思うんだけど、

二階堂川の東なのだろうか、それとも、西なのだろうか。
あるいは、川を挟んだ両岸に邸宅の敷地があったのかも。



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第二小学校の校庭わきの道を歩いて、六浦道へ。
そして、二階堂川に架かる歌橋をわたりました。

北条義時は、大倉亭のほかに、
小町亭(現在の宝戒寺)も持っていましたが、

おそらく、幕府にも覚園寺にも近い大倉亭のほうを、
義時は、より重視していたんじゃないかな。

1219年に大蔵幕府が焼失したあと、
大倉亭(その付近?)が将軍の仮御所となり、

のちに4代将軍となる三寅(藤原頼経)は、
その幼少期を、義時とともに大倉亭で過ごします。

1224年に北条義時が死去すると、北条政子が大倉亭に入りますが、
政子も、1225年に死去。

政子の死後、3代執権・北条泰時は、
幕府(御所)を宇都宮辻子に移転することを決定します。

幕府の移転に伴い、義時の大倉亭は破却されたそうです。
最後の住人は、北条時房(連署)でした。
(「都市鎌倉の中世史」 秋山哲雄 2010年 吉川弘文館 より)



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