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Railtrip Landscape History

鎌倉幕府を歩く・頼朝の大蔵幕府跡



If you want to feel Kamakura Shogunate



ここは、鎌倉、鶴岡八幡宮。

境内を東西にのびる流鏑馬の馬場、
その東端にある鳥居です。


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鳥居をくぐり、神社の敷地の外に出ると、
そこには、横浜国立大学付属の小学校・中学校があります。

学校の校庭に沿って、さらに東へ進んでいくと、
今度は、清泉小学校の校舎が見えてきます。

下の写真は、清泉小学校の敷地の南西角の、
小さな交差点。


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写真をよく見ると、
石碑がひとつ立っているのが分かります。

鎌倉の町角には、道路のわきや、民家の隙間など、
こうした石碑があちこちに立っているんです。

石碑は、大正時代に設置されたもののようで、
書かれているのは、古文の授業で習うような漢字だらけの文章。

なので、石碑にいったい何が書かれているのか、
その内容を理解するのは難しいんだけど、

ともかく、石碑があるこの場所には、鎌倉時代に何が存在していたのか、
それを私たちに伝えようとしてくれているんです。

この場所の石碑に書かれている文字は、これです。


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大蔵幕府旧跡

鎌倉の、鶴岡八幡宮の東側のエリアを、大蔵というそうです。
ここは、その大蔵にあった幕府の跡地。

幕府は、征夷大将軍が陣地とした場所のことで、
将軍が暮らしていた 「 御所 」 ともいいます。

およそ150年間の鎌倉時代において、
幕府(御所)はずっと同じ場所にあったわけではなく、
何度か移転をしているんです。

ここ、大蔵幕府の旧跡は、鎌倉幕府ができてから、
いちばん最初に御所となった場所。

つまり、鎌倉幕府の初代将軍、
源頼朝が住んでいた御所なのです。

This stone monument is the historic site of Okura Bakufu.
Okura Bakufu (made in 1180) was Minamoto no Yoritomo's Palace.

Minamoto no Yoritomo(源頼朝) was the first Shogun
of the Kamakura Shogunate(Kamakura Bakufu 鎌倉幕府).




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大蔵幕府の石碑がある交差点から、東と西の方角を見る。
交差点の周囲4ブロックが、大蔵幕府の跡地だったとされています。

そして私は、社会科見学をする小学生たちとともに、交差点から北へ、
源氏の家紋(笹竜胆)がデザインされた道を歩きます。


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道の突き当たりまで進むと、そこには小さな公園。
よりとも児童公園というみたい。

公園のさきには、山へと入っていく階段があり、
階段をあがった広場には、

観光パンフレットにも載っている、
頼朝の墓があります。


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パンフレットに載っていることもあって、週末になると、
多くの人が頼朝の墓をお参りされているようです。

この日も、鎌倉遠足の学生たちのグループが何組も、
お墓を見学するため、この階段を上がっていました。

しかし、この頼朝の墓が立てられたのは、
1199年の頼朝の死からおよそ580年後の、江戸時代の後期、1779年のこと。

なので、現代の私たちがイメージする 「 お墓 」 の意味合いというよりは、
供養塔、あるいは、顕彰碑のような性格を持つものなのかも。

私としては、この場所でもっとも注目したいのは、上の写真に見える、
法華堂跡の石碑と、そのお隣の、白旗神社なのです。

せっかくお墓参りに来たのなら、
ここをスルーしちゃダメですよ、みなさん。


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法華堂(ほっけどう)は、もともと、
大蔵幕府の北隅のこの地にあった、頼朝の持仏堂でした。

1199年に頼朝が亡くなると、
その亡骸は、持仏堂に葬られたんだそうです。

その後、持仏堂は、法華堂と呼ばれるようになり、
多くの法要が営まれたそうです。
(白旗神社の説明板より)

明治時代の神仏分離と廃仏毀釈で、法華堂は破壊され、
明治5年、その跡地に、頼朝を祀る白旗神社が建てられた。

「源頼朝」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年9月7日 (水) 21:14
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/源頼朝



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頼朝が13歳のとき、
父・源義朝と平清盛が京都で合戦となりました。

義朝は戦いに敗れたうえ、味方の裏切りにあい、
入浴中に裸のまま殺されています。
(1159年 平治の乱)

頼朝は、逃亡中に平家の兵士に捕らえられ、1160年、伊豆への流罪となり、
1180年に挙兵するまで、20年もの長い年月を、流人として過ごしました。

その生活のなかで、頼朝はお経を唱えることを怠らなかったそうです。
日々読経をすることで、父・義朝の無念を弔っていたんだとか。

「源頼朝」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年9月7日 (水) 21:14
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/源頼朝



鎌倉に入り、幕府を開き、将軍となったあとも、きっと、
この法華堂跡地には、頼朝がお経を唱える声が聞こえていたはず。


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大蔵幕府の跡地は、鶴岡八幡宮から近いところにあるし、
鎌倉宮や、杉本寺、報国寺などへ向かう道(金沢道)の途中にあります。

石碑が立ってるだけではありますが、
鎌倉のまちの歴史上とても重要な場所。

鎌倉が好きな人は、ぜひ一度見に行って、
石碑にタッチしてみてください。

金沢道を歩いて大蔵幕府の跡地へ向かう場合、
ベルグフェルドさんのカフェが目印になります。

カフェのわきの道を入ると、だんだん、
あの石碑が見えてきますよ。


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1160 平治の乱により、頼朝は伊豆へ流罪
1180 頼朝、伊豆で挙兵し、鎌倉に入る
1180 大蔵御所の造営
1185 壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡
1192 頼朝、征夷大将軍となる
1199 頼朝が死去
1213 和田合戦により大蔵御所が焼失、再建
1219 鶴岡八幡宮で実朝が暗殺される
1219 大蔵御所が焼失、北条義時大倉亭の仮御所に移転




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