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Railtrip Landscape History

大友氏と、小田原市の大友


神奈川県 小田原市の、西大友にやって来ました。


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新松田駅から、富士急バス・小田原駅ゆきに乗って、
およそ10分 - 15分ほどのところ、ここは、西大友のバス停です。

この日の新松田の駅前は、山登りをする人たちや、
松田山の河津桜を見に行く人たちで、ものすごく賑やかでしたよ。

松田山の河津桜まつりは、少しずつ暖かくなってきたいまの時期に最適なイベントだし、
ちょっとウォーキングを楽しむのにも、ちょうどいい距離感なんですよね。

※ 私が3年前に訪ねたときの記事
まつだ桜まつり2013 満開少し過ぎ







上の地図のマークが、西大友バス停の位置です。

新松田駅からのバスの乗客は3人、川音川を渡り、松田町から大井町へと南下。
大通りを走るんじゃなくて、対向車とギリギリすれ違うくらいの、せまい旧道を走りました。

なんども道を譲ったり、譲られたりしながら、運転手さんの巧みな技術によりバスは進み、
小田原の市内に入るとまもなく、西大友のバス停に着。



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バス停から、東へ歩きます。
酒匂川がつくった足柄平野の低地には、畑が広がっている。

振り返ると、箱根と足柄の山々、さらに、富士山も見えましたよ。

山の連なりと空、町のなかの旧道、畑とその土の匂い、バスの乗り降りの仕方、
ひとつひとつのことが、酒匂川沿いの土地に来ていることを実感させてくれる。



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バス停から少し歩いたところに、お寺があります。
長善寺さんです、お参りにいってみました。



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長善寺は、寺伝によれば、1202年 (建仁2年) に、
この地方の領主であった、大友能直の開基により建立された。
(お寺にある説明板より)


大友能直 (よしなお) は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人で、
現在の神奈川県 小田原市の、大友を領した、大友氏の初代なんだそうです。

大友氏といえば、九州・大分を拠点にし、キリシタン大名としても名を知られる、
あの戦国大名の大友氏を、私はまず連想するのですが、

なんと、大友能直こそが、九州の大友氏の初代であり、
そして、大友という苗字は、ここ、小田原の大友に由来するものなんですって。



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あの有名な九州の戦国大名の大友氏は、関東の武士としてスタートしていて、
その苗字の由来となった地名が、いまも神奈川県の小田原市に存在している。

九州の人ならずとも、驚きですよね。
神奈川県民の私としては、嬉しいショッキングです。

歴史の教科書で学んだあの人物、ゲーム 「 信長の野望 」 で覚えたあの大名、
彼らの名前のもとになった土地を、自分の足で歩くことができる、この瞬間に、

現在と、過去との、歴史のつながりを感じるし、
彼らは、教科書やテレビゲームの世界だけの人物じゃなく、本当に存在していたんだ、
って、ちょっとだけ実感できるような気がしてくるんです。


ちなみに、長善寺の前は、上府中公園で、園内には小田原球場がありました。
大友能直が長善寺を開いたのなら、大友氏の屋敷もこの周辺のどこかにあったはず。



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鎌倉時代から、南北朝・室町・戦国と、大友氏の長い歴史の中から、
小田原の大友にとくにゆかりがあった、大友氏の初代・大友能直について見てみると、

大友能直の父・古庄能成 (ふるしょう) は、愛甲郡 古庄 (現在の厚木市 古沢) を領した人物で、
大友能直 (1172年生) も当初は、古庄能直、と称していました。

その後、母・利根局の父 (能直の母方の祖父) である、波多野経家が所領としていた、
大友郷を相続したため、大友能直と名乗るようになった。
(wiki 大友能直より)

能直のお母さん・利根局は、神奈川県 秦野市を本拠とした、波多野氏の一族の娘で、
お爺さんの波多野経家は、嫡流である波多野義通の弟で、波多野氏の庶流にあたるようです。

ちなみに、経家・義通の妹は、源義朝と通じて、
源義朝にとっての次男で、頼朝の兄である、源朝長を生んでいますよ。 ( 1143年 )

波多野氏は、平安時代の後期には、本拠の波多野 (秦野) から、
酒匂川沿いの、松田、河村、沼田などに進出していて、
大友能直が相続した大友郷は、その最前線のような位置にあたります。

※ 波多野氏について散策したときの記事
秦野盆地と、波多野城址
秦野 東田原
東田原中丸遺跡と、波多野荘
秦野にある源実朝の首塚と波多野氏



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大友能直の母・利根局は、源頼朝に愛された女性だったようで、
能直もまた、頼朝に気に入られて、近習として仕えたそうです。

曾我兄弟の仇討ち (1193年) のときにも、能直は、頼朝の身辺を守っていたんだとか。

その後、1196年、大友能直は、
豊前・豊後の守護 (現在の福岡県東部と大分県) に補任されて、
九州を統括する鎮西奉行となりました。
(wiki 大友能直より)

大友能直がこのように出世できたのは、
母・利根局とともに頼朝に気に入られていたことや、
能直が、頼朝が厚く信頼していた幕府文官の中原親能の養子となっていたことが、
その背景としてあるようです。
(wiki 大友氏より)



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こうなるともはや、能直にとって、実父の古庄能成とのつながりは、
かなり薄くなってるように思うんだけど、

大友能直とともに鎮西奉行となった、武藤資頼という人物は、
古庄能成の弟・武藤頼平 (能直にとって叔父にあたる) の、養子なんだそうです。
(wiki 武藤氏・武藤頼平より)

武藤資頼は、筑前・肥前の守護であり、さらに、大宰府の次官 (少弐) も任されたため、
それ以降、武藤氏は、少弐氏と称します。

大友氏と少弐氏は、のち、モンゴル帝国の襲来 (1274年) のときも、
鎮西奉行として、九州において異国警護の中心的な役割を果たすことになるんです。

私は、昨年末に円覚寺を訪ねたときに、北条時宗の時代について色々と勉強したんですけど、
大友氏と少弐氏が、もともとは同族で、どちらも関東にいたなんて、本当に驚きです。



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鎮西奉行を任された大友能直ですが、自身は九州での滞在は一時的なもので、
代理として、弟の古庄重能を派遣していたようです。

大友氏が、本格的に九州・豊後に下向して在地化するのは、
クビライからの国書が到来し (1268年) 、モンゴル帝国の脅威が高まるなかで、
幕府が異国警護の態勢を強化した、1272年のことで、能直の孫・大友頼泰の時代。
(wiki 大友氏より)


そして、いよいよ大友氏の九州での活動が始まることになりますが、
それについては、いずれ大分を旅しながら、また色々と楽しんでみたいな。

ということで、大友氏にゆかりがある、小田原市と大分市は、姉妹都市には ....... 、
なってないじゃん。



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