saunterer

Railtrip Landscape History

衣笠城は、三浦氏の古城


横須賀中央駅から、京浜急行バスに乗り、
およそ20分、衣笠城址バス停に降りたちました。


PB000656


鎌倉幕府の御家人であり、三浦半島の豪族、
相模国(現在の神奈川県)を代表する武士団である、三浦氏。

その三浦一族が本城としていたのが衣笠城で、
三浦半島のほぼ真ん中、横須賀市の内陸部に位置しています。

横須賀しょうぶ園や、衣笠山公園に近いところです。





衣笠城址は、京浜急行のバス停を降りると西に見える、
小高い丘を上ったところです。


PB000657


下の写真は、むかしの三浦半島における、
主要な道路や城館などを表示したマップです。

マップの中央を東西に、古東海道が走っています。

771年までの東海道は、江戸時代のものとは違い、
鎌倉から三浦半島を横切り、走水から東京湾を渡って、

房総半島へ向かうルート(古東海道)だったんだそうです。
東海道は、相模国においては、たびたび道筋を変えています。

「東海道」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年9月18日 (日) 17:47
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/東海道



PB000658


その古東海道から、ひとつの脇道が南へ伸びていて、
その脇道の途中に、衣笠城はあります。

衣笠城、その隣に、三浦氏の史跡が集まる大矢部、佐原、
そして、怒田城のあたりを抜けて、久里浜まで通じている。

この衣笠城、大矢部、佐原のエリアが、
三浦氏にとってのホームタウンになります。


PB000659

PB000660

PB000661


三浦氏の初代とされる為通は、前九年の役(1051-1063)での戦功により、
1063年、源頼義から三浦の地を与えられた。

そして、衣笠城を築き、三浦の姓を名のり(三浦為通)、
以後、為継、義継、義明の代にわたり、三浦半島経営の中心地となった。
(横須賀市の説明板より)

「 三浦の地 」 というのが何を意味しているのか、
私にはまだまだ分からないのですが、

これと同じ時代に、三浦氏が管理する三崎庄が、
冷泉宮儇子内親王の領(荘園)として成立しています。

儇子内親王の父は、小一条院敦明親王で、
源頼義(頼朝の先祖)は、小一条院の判官代として仕える存在でした。

「源頼義」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年5月31日 (火) 14:16
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/源頼義


また、儇子内親王の母は、藤原道長の娘・寛子であり、三浦氏は、
京都とのつながりを持つなかで、藤原氏や河内源氏と関係を深めていました。

「平忠通」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2013年10月27日 (日) 09:46
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/平忠通


三浦氏のような地方武士は、
藤原氏や親王のような権威的存在や、

源氏のような軍事貴族と関係を保つことで、
自身がもつ土地についての権益を守っていた、ってことなんだと思う。

三浦氏が、衣笠城や大矢部を本拠としたのは、
そうした平安時代後期のころの話のようです。


PB000662

PB000664

PB000663


三浦為通から3代目の子孫にあたる、三浦義明が晩年(89歳)のとき、
1180年に、頼朝が伊豆で挙兵します。

頼朝の挙兵を聞くと、三浦義明は、
かつて、頼朝の父・源義朝が関東にいた頃、

義朝の良きパートナーとして活躍した、自身の栄光の時代を思い出し、
一族を集めると、目頭を熱くしながら、佐殿(頼朝)に味方するようにと命じます。

三浦氏は、頼朝軍に参加しようと、衣笠城を出発しますが、その途中、
頼朝軍が石橋山(小田原市)で平家方に敗戦したとの報せが届き、
頼朝との合流を諦め、三浦へ戻ることに。

その帰路において、三浦氏は、
平家方として参加していた、畠山・河越・江戸ら、秩父党の軍勢による追撃を受けます。

三浦氏と秩父党の戦いは、鎌倉・由比ヶ浜での初戦を皮切りに、
小坪(逗子市)から、三浦氏の本城である衣笠城へと転戦していきます。


PB000665


衣笠城址前交差点の近くにある衣笠城追手口から、
住宅が並ぶ坂道をあがり続け、

丘の斜面にある、大善寺をお参りしました。
衣笠城の城内にあり、三浦一族の仏教信仰の中心だったそうです。
(説明板より)

そして、境内わきの階段をあがり、
さらに衣笠城の中心部へ。


PB000666

PB000667


衣笠城址の遊歩道には、
衣笠山公園へ通じると案内されている細い道もありましたが、

あんまり人が通らないようで、整備もされてなく、
ちょっと進んだだけでも、ほぼ野生化していた。

タイワンリスの 「 お出迎え 」 も受けたので、
それ以上の探索は断念しました。


PB000668


三浦氏と秩父党が戦った、1180年の衣笠城合戦。

それは、衣笠城の歴史において最大のトピックであり、また、
当主の三浦義明にとっては人生最期のハイライトになります。

秩父党の軍勢に攻め込まれると、三浦義明は息子たちに、
必ずや佐殿(頼朝)を見つけ、お守りするようにと命じ、みんなを城から脱け出させ、
自らは城にのこり、討死にすることを決断。

平氏政権下にあって逼塞する三浦氏の現状にあって、
頼朝を支えることが、かつて義朝と手を組んで築いたあの時代のように、

一族の輝きを取り戻すチャンスである、
義明はそう期待し、子孫に希望を託し、この世を去りました。


PB000669

PB000670


石橋山の戦い、衣笠城合戦から2ヶ月後、
治承4年(1180年)10月、源頼朝は鎌倉に入ります。

鎌倉幕府が少しずつ成立していくにあたって、幕府の御家人・三浦氏は、
活動拠点を、三浦から鎌倉に移していくことに。

近いですからね、鎌倉と三浦は、目と鼻のさきです。


PB000671


その後、三浦氏は鎌倉幕府の有力御家人として活躍し、
衣笠城が特別に重視されるようなことはないまま、

1247年、三浦氏と、北条氏・安達氏との戦い(宝治合戦)が起こり、
かつて頼朝のお堂だった、鎌倉の法華堂において、三浦氏は滅亡。

戦後処置で、衣笠城は廃城となり、
矢部郷は鶴岡八幡宮寺に寄進されたとも。
(鈴木かほる 「相模三浦一族とその周辺史」 より)


PB000672

PB000673


衣笠城址への京浜急行バスのアクセス

★JR横須賀駅・京急横須賀中央駅から
横須賀市民病院ゆき、大楠芦名口ゆき、長井ゆき
三崎口駅ゆき、三崎東岡ゆき、三崎港ゆき、
のいずれかに乗り、衣笠城址バス停で下車

★京急YRP野比駅から
衣笠十字路ゆきのバスに乗り、衣笠城址バス停で下車。

★JR衣笠駅のバス停から、衣笠城址バス停へ直接行くバスはありません。
400mほど離れたところにある 「 衣笠十字路バス停 」 には、衣笠城址に行くバスあり。
(バス情報はすべて、2016年9月時点のもの)



関連記事
スポンサーサイト

 三浦氏 御家人 頼朝

Comment

Add your comment

Latest