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Railtrip Landscape History

プロイセンと赤羽接遇所

ここは、港区 東麻布 1丁目。
東京タワーと、メトロの麻布十番駅との、中間くらいのところです。


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前回記事にした、横浜開港資料館で開催されている企画展、
幕末・明治のプロイセンと日本・横浜 」 について、引き続きです。

幕末期における、プロイセンの領事館・公使館は、
他のヨーロッパ各国と同様、江戸・横浜に設けられたのですが、

江戸の領事館・公使館については、その所在地が何度か移転しているんです。
それらを、ちょこっとだけ巡ってみました。

まずは、こちらの公園なんですけど。



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都営大江戸線の赤羽橋駅の北側にある、小さな公園。
飯倉公園といいます。

この飯倉公園がある場所には、江戸時代の末期、
日本に来訪した外国人を迎えるために、幕府が造った施設、赤羽接遇所がありました。

下の古地図の、「 赤羽根外国人宿所 」 というのがそれです。



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赤羽接遇所は、1859年 (安政六年) に設けられた、外国人のための宿舎兼応接所で、
作事奉行・関出雲守行篤 (旗本) らによって建設された。

1861年1月24日に、日本と、
ドイツの前身のひとつであるプロイセンとのあいだに締結された 「 日普修好通商条約 」 は、

1860年に日本にやってきたプロイセンの外交官・オイレンブルクと、
幕府との交渉の末に結ばれました。

その交渉の間、オイレンブルクは、この赤羽接遇所を宿所としていて、
条約の締結も、赤羽接遇所において行われたんだそうです。
(飯倉公園にあった説明板より)







上の地図のマークが、飯倉公園の場所なのですが、古地図と照らし合わせてみると、
現在の飯倉公園があるところと、かつての赤羽接遇所の位置は、ちょっとズレてるっぽい。

赤羽接遇所があった、より正確な位置は、下の地図のマークのあたり、
飯倉公園よりひとつ北側のブロックなのかな、って思います。







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上の写真は、飯倉公園の北側の様子。
この道の左手一帯が、赤羽接遇所だったんじゃないかな、と思う。

続いて、私は、
飯倉公園から南西の方向へと進みました。



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首都高速の環状線、
その高架下には、新堀川が流れています。

そこに架かるいくつかの橋のうちの一つ、
ここは、中の橋です。



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幕府とプロイセンとの条約締結交渉にあたっては、
アメリカ総領事ハリスの秘書であった、ヘンリー・ヒュースケン (オランダ出身のアメリカ人) が、
交渉の通訳として協力していたんだそうです。

条約が結ばれる間近の、1861年1月14日、
ヒュースケンは赤羽接遇所で通訳の仕事をし、

自身の宿所である麻布の善福寺 (アメリカ公使館) に戻ろうとしたところ、
この、中の橋の北側で暗殺者に襲われ、翌日に死去した。
(wiki ヘンリー・ヒュースケンより)







高速道路の陰に流れる、新堀川 (古川)。

暗殺現場の雰囲気をいまに伝えるかのような景観になっている。
この近くでは、清河八郎も暗殺されています。

新堀川は、渋谷川の下流なんですって。
どうりで川の水が、..... ね。



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日普修好通商条約が締結 ( 1861年1月24日 ) されたことにより、
1862年12月29日、初代駐日プロイセン領事のマックス・フォン・ブラントが横浜に着任。

アメリカ・イギリス・フランスなど、1858年に修好通商条約を結んだ各国は、
幕府との取り決めどおり、当初は、神奈川に領事館を置いていましたが、

※ 条約では、神奈川を開港地としていたが、幕府はその隣の横浜を港に指定した。
それでは条約に反するとして、各国は領事館をあえて神奈川に設置していた。


横浜が貿易港としての機能を発展させていったため、1862年頃には、
各国はそれぞれ、横浜の居留地内に領事館を移転させていました。

日本への進出で列強からやや遅れをとっていたプロイセンも、
まず横浜の居留地に領事館を設けます。

その場所は、横浜の弁天あたり (みなとみらい線・馬車道駅付近)。

下の写真は、横浜の馬車道駅ちかくの北仲地区、建物は旧生糸検査所の倉庫。
オランダ領事館もこの近くにあったようです。



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その後、1865年に、プロイセンは江戸にも、領事館を持つことになります。
私も、その場所へ移動します。

続くです。



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