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Railtrip Landscape History

蓮華王院、法住寺、新日吉社


三十三間堂の境内にて、ひとつの石碑を見つけました。


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後白河上皇院政庁 法住寺殿址

法住寺殿 (ほうじゅうじどの) は、
後白河上皇 (後白河院) が院政を行った政庁です。

後白河は、1158年に、皇子の守仁 (二条天皇) に譲位し、上皇となり、
天皇の御所とは別のところに、専用の 「 院御所 (いんのごしょ)」 を造営した。

法住寺殿と名付けられた院御所は、東山のふもとから、西は鴨川の川岸まで、
南は八条坊門小路 (JRの線路あたり)、北は六条通までの広大な規模であった。

1161年に、法住寺殿の造営工事が完了し、後白河は以後約20年の住まいとしたが、
1183年、源義仲の夜襲にあい、法住寺殿は焼失した。(法住寺合戦)
(境内の説明板より)





上の地図のマークは、法住寺殿址の石碑がある場所。
三十三間堂の境内にあります。拝観料600円です。(2016年4月時点)

堂内のたくさんの仏像を見学するのと同じくらいに、
この石碑を発見するのを楽しみにして、私は三十三間堂に来たのです。

平清盛の政敵であり、源頼朝に大天狗と言わしめた、後白河法皇。
その法皇が、自身の院御所である法住寺殿に建てた仏堂、それが三十三間堂なのです。

正式には、「 蓮華王院本堂 」 というようです。


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三十三間堂の門を出て、境内の東わきの道を歩きました。
この道も、広大な法住寺殿の敷地を通るもののひとつ、だったはず。

法住寺殿という名称は、平安中期、988年に、
藤原為光 (藤原道長の叔父) が創建した 「 法住寺 」 が由来となっている
、そうです。

「法住寺 (京都市)」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2015年12月26日 (土) 09:28
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/法住寺_(京都市)


法住寺は、いまもあります。
三十三間堂の東となりです。


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藤原為光が建てた法住寺は、すぐに火災で焼失してしまうのですが、
のち、1160年、後白河上皇は、法住寺を包摂するかたちで、御所の造営を開始した。

後白河 (雅仁親王) は、鳥羽天皇の第四皇子で、待賢門院璋子を母に生まれました。
同母兄の崇徳天皇がすでに即位していたため、皇位継承とは無縁の立場であるはずでした。

しかし、後白河の父・鳥羽は、白河法皇 (鳥羽の祖父) に愛された待賢門院を忌避し、
美福門院得子を寵愛。

1139年、鳥羽は、美福門院とのあいだに、皇子・体仁親王を儲けると、
1141年、崇徳天皇を譲位させ、体仁親王 (近衛天皇) を即位させる。

平安後期は、皇位を皇子 (子孫) に譲って天皇を引退した 「 上皇 」 が、
天皇の父であるという父権をもとに権力をもつ院政の時代で、
弟の近衛が天皇になってしまった崇徳は、院政を布くことができなかった。

ところが、1155年、近衛天皇が皇子なくして崩御したため、つぎの皇位継承者が問題になりました。
その候補として、崇徳の皇子・重仁親王と、後白河の皇子・守仁親王が挙がります。



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重仁親王が即位すれば、その父・崇徳の院政につながるため、
それを恐れた美福門院らは、幼いころから養子としていた守仁親王を推挙。

しかし、守仁親王の即位となれば、その父・雅仁親王 (後白河) を飛び越えての皇位となってしまうため、
守仁親王を皇位につけるための中継ぎとして、まず、守仁の父・雅仁親王が即位することになった。

「後白河天皇」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年3月13日 (日) 01:06
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/後白河天皇


1155年、雅仁親王は高松殿で即位。(高松神明社の説明板より)
ここに、後白河天皇が誕生します。


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法住寺をお参りしてきました。
ちなみに、法住寺の門前にも、法住寺殿址の石碑はあります。

三十三間堂の境内のものと、法住寺の門前のもの、
せっかくなので、どちらも見学して、コンプリートいたしましょう。


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そして、私は後白河法皇のお墓をお参りしました。

後白河天皇陵、
法住寺のすぐとなりに入場口があります。


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後白河天皇は、即位から3年後の、1158年に、
美福門院からの要求により、皇子・守仁親王 (二条天皇) に譲位。

おそらく、このときに後白河は、
即位して御所とした高松殿から、院御所の三条殿に移ったんだと思う。

その三条殿は、1160年の平治の乱で、藤原信頼・源義朝らの襲撃によって焼失したため、
三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かった。

後白河法皇は、法住寺殿の造営に際して、その鎮守として、
1160年、新日吉社と、新熊野社を勧請した。

「後白河天皇」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年3月13日 (日) 01:06
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/後白河天皇


その、新日吉社へお参りに行きました。

新日吉と書いて、「 いまひえ 」 と読むんだそうです。
現在は、新日吉神宮という社名になっています。


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比叡山 東坂本の、日吉山王七社 (日吉大社) から勧請した、新日吉神宮。
後白河法皇も祀られているそうです。
(京都市の説明板より)

現在は、女子学生たちに囲まれた立地にあるけれど、
創建当初の新日吉社は、智積院がある場所より南側に建てられていたそうです。

ちょうど参道のあたりから、東山の坂道が始まります。
新日吉社は、東山の麓に位置しているんですね。


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三十三間堂、法住寺、新日吉神宮を歩きながら、
法住寺殿について、後白河法皇について、もっと詳しく知りたかったんだけど、
今回はとりあえず。

4月の京都の、予想外の強い日差しの下、かなり急ぎ足の散策になっちゃって、
色んなことをいっぱい見逃しちゃったけど、それはそれで良し良し。


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1127 鳥羽法皇と待賢門院のあいだに、雅仁親王が生まれる。
1139 雅仁親王、高倉宮御所で元服。

1155 雅仁親王、高松殿で即位、後白河天皇となる。
1156 保元の乱。
1158 後白河天皇が譲位し、皇子の守仁親王が即位、二条天皇となる。
1160 平治の乱。
頼朝、伊豆に流刑。

1160 後白河上皇、法住寺殿の造営を開始、新日吉社・新熊野社を勧請。
1161 法住寺殿が完成、院御所とする。
1165 蓮華王院 (三十三間堂) が完成、清盛が建設に協力。
1169 後白河上皇、法住寺殿で出家、法皇となる。

1183 源義仲により、法住寺殿が焼失 (法住寺合戦)。
1183 後白河法皇、六条殿に移る、長講堂を邸内に建立。

1190 後白河法皇、六条殿で頼朝と対面。
1192 後白河法皇、崩御。
頼朝、征夷大将軍となる。





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