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Railtrip Landscape History

勝海舟の赤坂の邸宅


ここは、東京メトロ・千代田線の、赤坂駅。


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赤坂駅から北の方角、銀座線・丸の内線の赤坂見附駅までの、
およそ400メートルほどのエリアには、飲食店や居酒屋などがたくさん並んでいる。



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そのエリアを構成しているブロックの、ある角を曲がり、
ビルに挟まれた、暗い路地のなかへ。

下の写真の小道の、右手の側には、かつて、
勝海舟の、赤坂での住居があったんだそうです。



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私が毎週録画しているテレビ番組、
BSイレブンの 「 尾上松也の古地図で謎解き にっぽん探求 」。

1月19日の放送 ( ♯15 ) では、江戸時代の赤坂の古地図を用いて、
赤坂の代表的な歴史人物として勝海舟を取り上げ、その邸宅があった場所を紹介していました。

それがすごく面白かったので、番組の内容を参考にしながら、
私も、赤坂を散歩してみました。

勝海舟は、本所 ( 現在の東京都 墨田区 両国 ) に生まれましたが、
24歳のとき ( 1846年 ) に、赤坂の田町に移ってきました。
このとき、新婚さんだったようです。

そして住居とした場所が、
下の地図の、ちょうどマークの辺り、なのです、が。







ここは、勝海舟が赤坂で最初に住居とした場所。

勝海舟は生涯において、この赤坂で、二度の引っ越しをしているんです。
つまり、勝海舟の住居の跡地は、赤坂に3ヵ所あることになります。

この赤坂での一軒目を住居としたのは、1846年から1859年まで。
この間のおもな出来事を、wikipedia 勝海舟 でチェックしてみると、

蘭和辞典 『 ドゥーフ・ハルマ 』 を筆写。
1850年頃 蘭学・兵法学の私塾を赤坂に開く。

( 1853年 ペリー来航 )
( 1854年 日米和親条約締結 )

1855年 長崎海軍伝習所に入門。
1859年 江戸に戻り、軍艦操練所 (築地) で海軍技術を教える。


長崎から江戸へ戻った 1859年に、
勝海舟は、赤坂での二軒目の住居へお引っ越し。

私もその場所へ移動します。



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ここは、赤坂氷川神社。
一軒目の住居から、南へ500メートルほど歩いたところにあります。



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お参りしてきました。

マンションやオフィス・商業ビルだらけの赤坂にあって、
この氷川神社の周辺だけは緑が多くて、歩きやすいし、心が休まります。

江戸のころの雰囲気が、ほかより少し多めに残っているような気がする。



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そして、境内の南側、本氷川坂へ。
この坂を下っていくと、そこには、



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勝海舟邸跡の碑。

1859年 (安政6年) から、1868年 (明治元年) まで住んだ場所で、
赤坂では二軒目の住居です。

下の地図のマークが、碑がある場所。
番組内で紹介された古地図には、「 勝麟太郎 」 と表記されていましたよ。



 



勝海舟が、この赤坂・本氷川坂下を居所とした10年間は、
幕末の、時代の流れの激しいころで、勝海舟にとっても代表的な活動期にあたります。

1860年 咸臨丸に乗って渡米。

1862年 坂本龍馬がこの勝海舟邸を訪ねる。(説明板より)
1864年 神戸海軍操練所を設立。

1866年 第二次長州征討で、長州側と停戦交渉。

1868年 西郷と会談、江戸城の無血開城。
1868年 江戸を去り、駿府へ。




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勝海舟の家といえば、3つあるなかでも、
この氷川神社ちかくの本氷川坂の邸宅が、私は真っ先に思い浮かびます。

坂本龍馬が勝海舟を、初めて訪問 (?) した、そのシーンの舞台であることが、
本氷川坂の勝海舟邸を、歴史的に強く印象に残る場所にしている。

龍馬は、西洋かぶれの勝海舟を暗殺しにいったが、
勝がするグローバルな話に感化されて、そのまま勝の弟子になった。

私は最初そう覚えたんだけど、( 小説 「 竜馬がゆく 」 を読んで。)
実際のところ、勝と龍馬の出会いについては、まだハッキリとは解明されていないようです。
(wiki 勝海舟・坂本龍馬 より)



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そして、勝海舟の赤坂における最後の居所へ向かいます。

私は、竜馬がゆく、を読んだのは10年くらい前のことで、
そのときにも、赤坂の3つの勝海舟邸めぐりをしたんです。

いまと同じように、石碑や説明板や、坂の写真を撮ってまわったんだけど、
町並みや風景は、赤坂駅の周辺を除けば、それほど変わりがないような気がする。

あちこちで工事が行われる東京の街だけど、開発される土地はたいがい決まっているのかも。
あるいは、同じ場所には必ず同じようなものが建てられているのかな。



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氷川神社から北東へ進みます。
転んじゃう人が多かったという転坂を無事に上がると、

三軒目の住居があった場所に、
勝安芳邸址の碑を見つけました。



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碑は、港区立の施設の敷地 (2016年2月時点) の、
南東角の小さなスペースに建てられています。

1872年 (明治5年) に、明治政府の要請で、ふたたび赤坂に居を定めてから、
1899年 (明治32年) に亡くなるまで暮らした屋敷跡なんですって。

明治維新後は、「 勝安芳 」 と称したんですね。

勝海舟の死後、屋敷地は東京市に寄付されて、
港区立氷川小学校 (1993年に廃校) の敷地として使用されたそうです。
(説明板より)







番組内では、勝海舟の3つの住居があった土地の高低差にも着目していました。

勝が出世するにつれて、
庶民が住む低地 (谷) から、住み心地のよい高台 (丘) へ、
邸宅の立地ステータスも上がっていったことが説明されていました。

そういう地形の利用のされ方は、今も昔も、共通するものがありますよね。
高低差があり、坂が多いのも、東京のまちの特徴のひとつ。

私は、赤坂みたいな都会のまちは苦手ですけど、今回歩いた感じでは、
3つの住居のうち、2軒目の本氷川坂下が、いちばん住みやすそうかなって思いましたよ。


江戸時代の古地図は、gooの古地図でも見ることができるので、
そちらもぜひ確認して、勝麟太郎の文字を探してみてください。

http://map.goo.ne.jp/history/edo/
( 「 九 」 のブロックが、赤坂界隈)






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