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Railtrip Landscape History

曾我兄弟と曾我氏の館跡


Revenge of the 曾我兄弟

復讐は、苦痛をともなう告白である
- クローン・ウォーズ シーズン2 危険な追跡より -



工藤祐家の子・伊東祐親は、
工藤氏がもつ久須美荘の本領・伊東を継承するはずだった。

しかし、父・祐家の早世と、祖父・工藤祐隆の意向により、
本領の伊東は、叔父の工藤祐継の持つところとなり、

祐親は、伊豆の中心から遠く離れた、
河津を領する立場に、甘んじざるをえなかった。


前回の続きです。

曾我兄弟の菩提寺の城前寺をあとにして、
曽我のまちの小道を東へ、曾我氏の館があったと伝わる場所へ向かいます。



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曽我の町角のあちこちに、上の写真のように、
「 曽我の里散策コース 」 のルートを示す道標が立てられていました。

この日は、梅まつりの開催期間中だったし、よく晴れて暖かかったこともあり、
観光ガイドさんと一緒に歴史散策をする人たちをたくさん見かけました。

ひとグループのお客さんにつき、1名のガイドさんがお相手するんですね。
マンツーマン状態で丁寧に案内をされている様子だった。

私は、小田原ガイド協会作成の 「 曽我の里散策マップ 」 を片手に、
彼らとすれ違ったり、後を付いていったりしながら、曽我でのランブリングを楽しみました。



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曾我兄弟の実父・河津祐泰は、1176年、工藤祐経によって殺された。
曾我兄弟は、亡き父の仇を取るために、1193年に工藤祐経を殺害します。

それが、日本三大仇討ちのひとつ、曾我兄弟の仇討ち。

ところが、仇討ちをされた工藤祐経のほうにも、
河津祐泰を殺害するほどの、ただならぬ恨みを抱える理由がありました。



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工藤祐経の父・工藤祐継は、祖父・工藤祐隆から、
伊東・宇佐美の土地を与えられていましたが、

祐継が亡くなると、まだ元服まえだった祐経に、
祐継の遺言により、伊東祐親が後見人として指名されることになります。

本領の伊東を工藤祐継に奪われていた伊東祐親にとって、
祐継の子・工藤祐経の後見人となったことは、伊東を我が手中におさめる、またとないチャンス。

伊東祐親は躊躇なく、ダークサイドにおちました。



(伊東市役所の広場にある、伊東祐親の像)
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工藤祐経が元服すると、伊東祐親は、自分の娘を祐経に娶らせます。
そして、祐経を伴って京に上洛し、祐経を平重盛 (清盛の嫡男) に仕えさせ、
そのまま京に留めおきます。

この間に、伊東祐親はせっせと伊豆に帰郷し、その足で伊東を押領。
さらに、祐経に娶らせた娘を奪還し、他の土地の一族へ嫁がせる。

工藤祐経は、この伊東祐親の行動に気付き、訴訟を起こしますが、
祐親の工作活動のまえに失敗に終わります。



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妻と所領を奪われたことに憤慨した工藤祐経は、(ひそかに) 伊豆へ戻ると、
1176年、伊東祐親・河津祐泰 (嫡男) の親子を襲撃し、河津祐泰を暗殺。
(wiki 工藤祐経より)

河津祐泰の死により、夫を失った祐泰の妻・満江御前は、伊東祐親のすすめにより、
祐成 (5歳)、時致 (3歳) の二人の子供を連れて、曾我祐信と再婚した。
(曽我にある満江御前の説明板より)

曾我祐信を養父とし、これにより、
曾我祐成・曾我時致の曾我兄弟が誕生。

そして、17年後、1193年に、曾我兄弟は、工藤祐経を殺害。
頼朝が主催する、富士の巻狩りの期間中のことでした。



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曾我氏館跡の伝承地にやって来ました。

写真のとおり、ここは他人様の敷地内なのでは?って思うような細い道を進み、
畑のなかの一角に、館跡の石碑と説明板、曾我一族の供養御堂を見つけました。

畑に一歩たりとも足を踏み入れないよう注意しながら、
静かに静かに、見学をしました。



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地図を開く



新編相模国風土記稿の記述から、曾我氏の館跡はほぼこの丘一帯と考えられる。

曾我氏は、平安時代から戦国時代にわたって、この地に拠点を置いたと考えられるが、
現在のところ、館にかかわる遺構・遺物はまだ確認されていない。

この丘は周辺で、鎌倉街道・大山道・曽我道が交差し、
背後に剣沢の水源を控え、眼前に足柄平野・箱根連山を見渡すなど、

交通・水利・軍事上、館を構えるのにきわめて良好な条件を備えていた。
(曾我氏館跡伝承地の説明板より)




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曾我氏の当主・曾我祐信は、1180年の石橋山の戦いでは、平家方にいたんだけど、
その後、頼朝が鎌倉入りすると、自ら投降して、頼朝に臣従したそうです。

曾我祐信には、祐綱という嫡男がいて、
1180年代後半には、祐信から祐綱へ、曾我氏は世代交代をしていました。

そのため、養子の曾我兄弟にとっては、曽我にいても将来はなく、
そのことが仇討ちを決意する遠因となったのでは、という説もあるようです。
(wiki 曾我祐信より)



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曾我兄弟の兄・祐成は、仇討ち直後の戦闘中に討たれて死亡。
弟・時致は捕らえられ、のち、斬首。

頼朝は、曾我兄弟の仇討ちを認めませんでした。

鎌倉時代において、仇討ちは、1232年制定の 「 御成敗式目 」 によって禁止されていて、
その規定は、この曾我兄弟に対する頼朝の処置が先例となっている、と考えられているようです。
(wiki 敵討より)

土地に関する争いを、平和的に公正に解決することは、
鎌倉幕府がもつ重要な機能であり、幕府のそもそもの成立要因のひとつでもあるので、
仇討ちを自由に認めてしまうわけにはいかないのでしょう。



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